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不昧公の正室・方子と娘・玉映の落款
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オススメ度 4.8点
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自筆「源氏物語」の「総角(あげまき)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
「総角の巻」の主人公は、源氏の君と女三の宮の皇子・薫の君と今上帝天皇と明石中宮の皇子・匂宮のきらびやかな恋物足りが描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は総角(あげまき)の内容の要旨
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。総角の巻は、源氏の君と女三の御子、薫の君と今上天皇の皇子・匂宮の恋物語を描いております。大君と中の君の姉妹は、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮を父とする。八の宮のなきあと宇治にこもる大君と中の君の姉妹のうち、大君との結婚を望む薫の君(母は、前朱雀天皇の皇女・女三の宮)は老女房の弁たちの手引きで大君の寝所に入るが大君は気配に気づき隠れてしまう。大君の意思を知った薫の君は中の君を匂宮(今上天皇と明石中宮の皇子)に紹介し結婚させようと考え、九月のある夜ひそかに匂宮を宇治に案内し、中の君と逢わせてしまう。しかし、母后・明石中宮に反対され、その後は身分柄思うように宇治を訪問することができない。大君と結ばれぬまま終わった薫は深い悲嘆に沈む。一方、薫の君の悲しみを人伝てに聞いた明石中宮は、「ここまで想われる女人の妹姫なら、匂宮が通うのも無理はない」と思い直し、匂宮に「二条院へ妻として迎えても良い」と認めた。匂宮は、中の君を京の二条院に引き取る決意をする。
原本自筆上部に「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」のうち「李夫人(りふじん)」の中の有名な一節である。この漢詩は、「反魂香(はんごんこう)」としても広く知られている。前漢の武帝王が美しい李夫人の死をいたみ「反魂香」を九華帳(漢王の寝室にかける,幾重もの花模様のついた,美しいとばり)の中で香を焚くと、美しい夫人の魂が煙に導かれ魂を呼び返してその姿を煙の中に夫人の姿が現われる。紫式部が「若紫」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解したうえで、「総角」の中の「大君が父君の八の宮を呼ぶべき煙がほしい」という意味から総角の原文の中で、「人の煙にありけむ香の煙そ、いと得まほしくおほさるる」と書いていることから紫式部が「白楽天」のうち「李夫人(りふじん)」の「反魂香(はんごんこう)」の漢詩に共鳴していることがよくわかる。押捺の詳細な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」総角(あげまき)の巻》
「総角」の巻は英文で「Trefoil Knots」と表記されます。
《自筆上部の「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」のうち「李夫人(りふじん)」の中の一節です。この漢詩は、「反魂香(はんごんこう)」としても広く知られている「白氏文集」の中の有名一節です。》
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
自筆右下の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。
自筆上部の「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」のうち「李夫人(りふじん)」の中の有名な一節です。
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。
《「源氏物語」総角(あげまき)の巻》
《「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」のうち「李夫人(りふじん)」の中の有名な一節で「白氏文集」に由来するものです。》
《御ちき(契)り》・・・・・なりけむ。いとこそくるしけれ。
すこし思し慰みなんに、知らさりしさまをも聞えん。「にくし」と、
なおほし入りそ。つみもそ得たまふ」と、御髮を撫てつくろひつゝ、
きこえ給へは、いらへもし給はねと、さすかに、「かく、おほし、
の給ふか、けに、『うしろめたく、あしかれ』とも、おほしおきてしを、
人わらへに、見くるしきこと添ひて、見あつかはれたてまつらんか、
いみしさ」を、よろつに思ひ給へり。さる心もなく、
あきれ給へりしけはひたに、なへてならすをかしかりしを、まいて、
すこし世の常になよひ給へるは、御心さしもまさるに、
たはやすく通ひ給はさらん山みち(道)のはる・・・《けさも》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
《「源氏物語」総角(あげまき)の巻》
《桐壺天皇の皇子・八の宮の御子・大君と中の君と薫の君、匂宮の恋物語》
《姫宮(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・大君)、薫の君を妹の中の君に嫁がせたいと願う》
《薫の君、中の宮(八の宮の姫君・中の君)を兵部卿宮(今上天皇の皇子)に譲るべく相談する》
《匂宮・(今上天皇の皇子)、中の君と契る》
《匂宮(今上天皇の皇子)から中の宮(八の宮の姫君・中の君)への後朝(きぬぎぬ)のお手紙》
《(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・大君)「たいして力もないこの私が一人で強情を張ってみても、
あなた(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)を
いつまでもこのままにおさせしておいてよいものか、という気になることもあったのです。
けれども、まさか、今すぐこうして何を考えるゆとりもなく、あれこれ恥ずかしい出来事のために
心を悩ますことになろうとは、まるで思いもよらないことでした。
ですが、これがなるほど世間にいう、逃(のが)れられないご宿運だったのでしょう。
ほんとにつらいのです。もう少しお気持が静まられたときに、
私が何も》・・・・知らなかった事情をもお話しいたしましょう。
私をにくい姉とお思いにならないでくださいな。罪をつくることになってはいけません」
と、姉君(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・大君)は、妹君(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)の
御髪(みぐし)を撫(な)でつくろい撫でつくろいお申しあげになるので、
中の宮(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)は返事もなさらない。
けれども、さすがにお心の中では、いかにも姉君(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・大君)がこうまで
お心をかけてくださってこのようにおっしゃるのは、
(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)「私のことが心配で、不幸にならぬようにと
お計らいになるのだろうが、しかし、兵部卿宮(匂宮・今上天皇の皇子)とのご縁でいつか世間の
もの笑いとなるような見苦しいことが起って、姉君に面倒をおかけすることになったら
どんなにつらいことだろうか」
と、中の宮(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)は、あれこれ思案に乱れておいでになる。
兵部卿宮(匂宮・今上天皇の皇子)は昨夜、中の宮(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君・中の君)が
そうした心用意もなくて、ただ茫然としておられたご様子が、それだけでさえ並大抵でなく
愛らしく思われたのに、まして今夜は多少世の常の人妻らしくもの柔らかにしていらっしゃるので、
兵部卿宮(匂宮・今上天皇の皇子)のお愛(いつく)しみは一段と深くなる。
だが、それにつけても容易にお通いになれそうもない山道の・・・・《遠さをお考えになると、
兵部卿宮(匂宮・今上天皇の皇子)は、胸の痛くなるようなお気持にまでおなりになっている。》
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。貴重品送料無料。:即決【古都京都】「八角御所火鉢A-160」茶道具・鉄瓶.蒔絵〝江〟。【新品未使用】 佐々木昭楽 なめくすり 高杯 菓子器 楽焼 在銘 共箱 共布 由来書 茶道具。■楠廸庵■茶道具 喰籠 祥瑞茄子喰籠 真葛香斎作 共箱 新品 未使用品。e4073 仁清写 渦 水次 泉山窯 宝泉造 金彩 共箱。:即決【古都京都】「金象嵌高足香籠A-631」茶道具・鉄瓶.蒔絵.香籠〝江〟。K11 希少 古い吉向焼 水差 蓋傷有「窯元 十三軒 吉向焼」造 二つ陶印 金彩夕顔水差 共布 共箱 茶道具。・即決【古都京都】「釣瓶花入れA-624」茶道具・鉄瓶.蒔絵〝江〟。茶道具 蓋置 俵(たわら)、杉原祥公(すぎはら しょうこう)作。東間 茶道具 建水 No.111。:即決【古都京都】「井筒B75」茶道具・鉄瓶.蒔絵〝江〟。茶道具 蓋置 六角 青海波ノ絵、 花蝶窯(かちょうがま) 手塚石雲(せきうん)作 、桐極箱 新品。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。
左の写真2枚が「源氏物語」総角の巻の末尾(原本番号88-B)右面と左面の押印。
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。左端の写真は「総角の巻」末尾の拡大写真。
左上の篆書体は、「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)の押印。
篆書体の下の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
写真左から2枚目上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(総角の巻)MRI 47―38B
自筆下二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款
「源氏物語」「総角の巻」主人公・総角の資料
下記写真は、国宝「源氏物語絵巻」の中に描かれる大君・中の君姉妹。
左側が琵琶と筝を奏でる大君・中の君姉妹、右が姉妹を覗き込む薫の君
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行
「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)の漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。。中村譲司 覆黒銀彩 急須 急須台付 茶注 茶器 煎茶道具 煎茶 [C NG0078]。【閑】浅田銘 染付『蓮花鳥文』煎茶碗/犬山焼 赤絵『花鳥文』煎茶碗/盃 茶道具 時代物★3D0803■。茶道具 蓋置 色絵 傘、京都 高野 昭阿弥作、共箱 新品。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
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