塚原卜伝遺訓抄 塚原卜伝
「卜伝百首」ともいう。本稿は京都市鈴鹿家本を底本としたが、これを東北大学図書館本と比べてみると、
置き刀夏は枕に冬は脇 春秋ならばとにもかくにも
武士の夜の枕に鼻紙を しいてぬるこそ教なりけれ
の二首が鈴鹿家本にはみられない。逆に、鈴鹿家本にあって東北大学本にみられないものも一首ある。
なお、本書の跋文(あとがき)は三段落に別れており、第一の段落は元亀二年(一五匕一)にこれを入手した加藤相模守信俊の筆。沢庵に乞うて序を記してもらったという第二の段落は、相模守を祖父とする人物の筆で、さらに「この武道百首の読師卜伝は」に始まる第三の段落は、また別の人物の筆によるものであろう。
もののふ(武士)の名にあふものは弓なれや深くもあふげ高砂の松
もののふ(武士)の魂なれやあづさゆみ(梓弓)はる日のかげやのどけからまし
もののふ(武士)のいるや弓箭(ゆみや)の名にたちて国を治るためしなりけり
ほか
柳生石舟斎兵法百首 柳生宗厳
「石舟斎兵法百首」は、文禄二年(一五九三)九月の日付のものが最も古い。現在、東京の柳生宗久氏所職のもの二点と、奈良県生駒の宝山寺所蔵のもの一点、計三点があるが、三者それぞれ内容に若干の相違がある。百首未満のもの、超えたもの、漢字書きのもの、仮名書きのもの、無刀が手刀になっているもの等さまざまである。本稿では慶長六年(一六〇一)二月、宗厳が能の金春流家元、竹川七郎に与えた宝山寺本を底本とし、他の二本に所収のものは後に加えた。なお、卜清作と注記されているものが十首ある。この百首は、日常生活の中での武芸を詠んだものが多く、儒教的、修養的な色彩のつよい表現が随所にみられるのが一つの特色である。
世をわたるわざのなきゆへ兵法を隠家とのみたのむ身ぞうき
かくれがとたのむはよしや兵法の あらそひごとはむようなりけり
兵法の舵をとりても世のうみを わたりかねたる石の舟かな
兵法はかねてこちき(乞食)とおもはずば争ひゆへにたゝかれやせん
しあひしてうたれて恥の兵法と心にたへずくふうしてよし
兵法は能なきもののわざなれば口業喧嘩のもとひ成けり
ほか
柳生新陰流百首
東京柳生家所蔵本には「先代手記ノ書」とあり、筆者は不詳だが、内容は十兵衛三厳の「月之抄」の内容が多く詠み込まれている。百首としたのは、これを引用した佐賀小城の鍋島大蔵元敦の「見観註解」に「新陰百首という」としているのでそれによったが、実際には百二十首である。「見観註解」と「月之抄」の内容とを照し合わせてみると、十兵衛の書のようにも思われる。
三学や九箇天狗太刀六つの太刀また廿七きりあひの事
五箇の身の位わするることなかれ兵法つかふ人のうんけん(運剣)
身はひとへ敵のこぶしをわが肩に くらべてこぶし盾につくなり
いつもたゞ左のひぢをのばす事わすれはしすなわすれはしすな
さきのひざ身をもたせつゝあとのひざ開くことこそよき左足なれ
ほか
二刀流兵法伝書(付・円明流水哉伝)
二刀流は宮本武蔵玄信(一五八四-一六四五)の兵法流儀。二天一流、武蔵流、二刀流、円明流などとも呼ばれる。この伝書は、村上平内正雄(村上派二天一流)の子村上平内正勝、同大右衛門正之兄弟の兵法問答を門人が書きとめた形になっている。
円明流は、二刀流以前の流名、水哉は左右田武佐藤原邦俊。先祖は代々三河に住み、家康につく。八田九郎右衛門尉智重に武蔵流を学ぶ。
夜もすがら心のゆくへ尋れば昨日の空に飛鳥の跡
移すとも水も思はず移るとも月も思はぬ広沢の池
敵もなくわれもなぎさの海士小舟漕ぎゆく先は波のまにまに
剣術を何と答へん岩間もる露のしづくにうつる月かげ
思ひなく巧みもあらぬ夢想には虎さへ爪の置き所無し
乾坤を其儘庭に見るときは我は天地の外にこそ住め
剣太刀もろ刃の利きを足に踏み死にも死になむ君によりては
振りかざす太刀の下こそ地獄なれ一と足すゝめ先は極楽
稽古をば疑ほどに工夫せよ解たるあとが悟りなりけり
ほか
小野派一刀流
小野派四代治郎右衛門忠於が元禄二年(一六八九)津軽越中守に呈した『一刀流兵法目録』には道歌がみられない。同時に呈した『一刀流割目録』に一首、『同仮字目録』に三首ある。それに山岡鉄舟が木下淡路守著『一刀流剣術』及び『月窓』の断章を筆写したものから数首、さらに梶派一刀流の『一刀説』所収の小野忠明の道歌一首を加えた。
ちはやふる神の鳥居のやうし木を門にてさせばあふとこそきけ(『割目録』)
敵をただ打つと思ふな身をまもれおのづからもるしづがやの月(『仮字目録』)
是のみと思ひきはめそ幾数も上に上ありすいもうのけん(同)
世はひろし事はつきせじさりとては わがしるはかりあると思ふな(同)
桜木をくだきて見れば花もなし(淡路守)
ほか
北辰一刀流 千葉周作
・北辰一刀流十二箇条目録
この道歌は、千葉周作成政(一七九四-一八五五)が、一刀流の十二箇条目録を詠んだものである。前書に「箇条目録十二ヵ条は一ヵ条ずつ十二ヵ条目をあげて、その次第を伝える処なり。一をつみて十二と挙げたるは意味の深長なる処あり。一刀より起こりて万刀に化し、万刀一刀に帰す。年に月の数十二ヵ月あり。一陽に起こりて万物造化し、陽中に陰をめぐみて万物生じ、陰ここに極まりて年月の尽くるものかと見れば、陰中陽を発してまたいつやら青陽の春にかえる。陰陽順(循)還して玉のはしなきが如し。当流の執行もまた斯の如く、一より起こりて十二に終る。終ればまたもとの一にかえりて尽くる事なし。またもとの初心にかえり、またもとにかえり、無量にして極まりなき心を持って十二の箇条を挙げたり」とある。
・北辰一刀流口授・兵法目録
本項所収のものは、山岡鉄舟筆写本(村上康正氏所蔵)の「北辰一刀流口授」「同兵法初・中目録」「千葉周作遺稿」(千葉栄一郎)所収の「剣術名歌」を収録したもの。重複もあるが、敢てそのままにした。中でも「剣術名歌十首」には他流の道歌の引用もみられる。
〔北辰一刀流十二箇条目録〕
立向ふ敵の眼に気を付て拳切先思ひゆるすな(二之目付之事)
受し気のゆるまぬ中に切返せ敵の打太刀我ものにして(切落之事)
気と力心につれて打つ太刀は春のいとゆふ秋の稲づま(遠近之事)
ほか
示現流兵法書 東郷重位
本書は、流祖東郷藤兵衛重位(一五六一-一六四三)作の示現流兵法の基本伝書。上中下三巻から成り、奥書に元和七年三月吉日、東郷肥前守重位とある。重位は初め丸目蔵人佐の新陰タイ捨流を学び、京の僧善吉に就いて天真正伝神道流系の自顕流を修行、のち一流を起こし示現流に改めた。重位の流儀は禅思想の影響を多分にうけ、自身新古今集の造詣があり、同流道歌には古歌の引用がかなり見られる。また自作の道歌も多く、兵法(剣術)の技法を発声時の舌の動きと関連させて説明し、心の問題を男女陰陽の和合をもって説くなど密教的思想も濃厚である。以上の流儀の特色は道歌にもあらわれている。
船となす谷の室の木(榁)水こそは心ともなれいのちともなれ
つなぎたる舟にさほさす心ちして用心するはいたづらとしれ
用心は折ふし毎にあらためよ舟の櫓櫂とかひ(楫)の心に
身をば舟になぞらへさまざまの心をのせてかぢ(楫)こたへせむ
桜麻にまじるよもぎのいかなれば神の御しでに色かわるらん
ときは山其名諫よ下草は今朝ふる霜に色のかわれる
ほか
示現流兵法書題伊呂波歌
奥書きに、貞享五年辰四月古日、伊勢松浦(印)平出源庵殿とあり、いわば「示現流歌伝書」である。「兵法書題伊呂波歌」の題簽がついている。鹿児島市東郷重政氏(示現流宗家)所蔵本。右宗家にはこのほかに『示現流伊呂波歌』「兵法 和歌集」がある。なお、歌意不詳の歌もあるが、今後の研究に待ちたい。
いながらも敵のこぶしに気をつけて目付も味もこの外になし
ろく道に迷は地獄引かへて悟れば六つのおしへとぞなる
はしたなく打ぬとおもふ心こそ惜みひかふる網のかゝるに
にはかにも詰かけられて其まゝに寸のうちにて敵を痛めよ
ほとけとて外より来る道もなし無念無想のこゝろ味なり
ほか
十文字鎌兵歌百首
本書前文によると、宝蔵院二代胤舜の印可をえた磯野左兵衛尉信元と葭田内膳正清正の両人が、互に相はかって古流の損徳を勘案して一流をおこし、三十七ヵ条の拍子と所作をきめた。しかし初学の者には理解しがたい点もあろうという配慮からこの百首を作ったとなっている。奥書きに、貞享三年(一六八六)の日付があり、伝系ならびに受伝者名がしるされている。
序(略)
常々の稽古の時も打むかふ敵とおもひてかねて敬う
身のかねは腰すはりて四寸みに なりて手足のゆがまぬがよし
跡(後)先にちからも人ず足ふみは うきたつやうの心なりけり
跡先にたるみもあらず手合をば廣きせばきのあはひ持べし
手の内はたゞやはらかに持なして あたる時にぞ手をばしめぬる
ほか
美人草秘歌
吉田流弓術の秘歌である。吉田流弓術の祖は日置弾正正次の門人吉田上野介重賢である。重賢の二代吉田出雲守重政(出雲派)、三代同出雲守重高(露滴派)、三代の門下に吉田出雲守重綱(花翁流)、吉田左近右衛門業茂(左近右術門派)、田中秀次(大心派)その他の名人が出る。また、二代の重政門からは石堂竹林如成、吉川六左衛門重勝(雪荷派)等の巨人が出る。この「美人草秘歌」の作者は田中大心秀次とされているが、果たしてどうであろうか。「美人草」を歌伝として別に示したのは天心派だけではなく、それも慶長、元和、寛永頃(十七世紀前半)には、その数もさほど多くなく、代が下るにつれ、口伝、書伝ともに賑やかになり、伝歌も次第にその数を増した。なお、本稿は「生弓斎文庫本」によったが、各歌に付けられている注釈は割愛した。
序 それ当流の射は、日置弾正豊秀より、江州吉川出雲守道宝に正統を伝うるなり。よって巻々射形骨法の理を記し、剛弱の心専用とするなり。この秘歌は術理の二を示し、自師賢学の位に至るためなり。(略)
もののふの知らでかなわぬ弓の道 弓馬二つは左右とぞきく
弓構は三つの習のあるぞかし その品々をよく口伝せよ
打起引にしたがひこゝろせよ弓に押さるなおもへ剛弱
手の裏は竹に藤咲くごとくにて風にしたがひしめゆるべあり
弦道といふ事しらぬ人はたゞ艫櫂もとらぬ船にのるかな
矢束ほど引てあぢはへ心なく弦にひかれなひぢのちからよ
ほか
小池流水芸歌訓
本書は三十八首から成る。末尾に「右三十六帖歌の本原は、流祖より、人を教うるの正術にして、すなわち当師友正君伝授の心法なり」とあり、本来三十六帖であるが今二帖を加えた、といっている。
小池流は小池久兵衛成行(一五八八-一六五九)が祖。駿河の人。元和五年(一六一九)徳川頼宣の紀州移封とともにこれに従い御船奉行竹本丹後に属して船手衆に水芸を指導した。小池流は、鎌倉時代の藤原秀時にはじまる野島流の系統という。
誰れ人も知ものにせんうきし身の心やすくも游るゝかな(平游 ひらおよぎ)
沈むぞと人は恐るゝ海川に およげるみちは我もうれしき(同)
手を出せば足をかゞめし立およぎ たへぬ思いをのびやしるらん(立游 立ち泳ぎ)
玉やりの早ごをかへし打ときは ひざらをあげて立游せり(同)
おのづからすがたもいでゝ浮みつゝ流 をこめて休む捨浮(捨浮)
うな原に手足をのばし猶うかん水になれそむ楽みぞこれ(同)
鉄砲十首歌二種
・稲富流鉄飽十首歌
この十首歌は、武道伝歌の中でも、最も古い方で、数えうたになっている。天文二十三年(一五五四)稲富相模守祐秀が佐々木少輔次郎義国から銃術を学び、その奥秘を極めてこの十首の歌を伝授されたものであるから、「卜伝百首」(元亀二年)よりも十七年ほど古い。祐秀の孫、祐直(直家とも。一夢斎と号す)は一色家、細川家に仕えたのち、家康、秀忠の砲術の師となった。この流系からは一貫流、大熊流などが出た。
・井上流鉄砲道十首歌
井上流砲術の祖は井上九十郎外記正継。一名外記流とも。出自不詳。慶長十九年(一六一四)徳川秀忠につかえ五百石、のち千石。正保三年(一六四六)九月十三日、相役の稲富直賢と砲術のことで争いを起こし、仲介の席にあてられた長坂血槍九郎宅で仲介者の長坂丹波守と稲富直賢を斬ったため、居合わせた人たちに斬殺された。のち、嫡子左太夫が幕府鉄砲頭となり以下代々幕末まで続いた。世界発行部数限定品。この十首歌の作者は不詳。(東京、所荘吉氏蔵)
〔稲富流鉄炮十首歌〕
一あるめあてをしらでみな人の しどろもどろにはなす鉄炮
ニ色をたゞつよかれとねがはゝば筒と薬に如く物はなし
三色にてとりあつめてぞあはせける加減すこしの大事成けり
四さいなく鍛錬したる人だにも ときおりおりにかはる物かは
五くい(極意)とは目当の外にめあて有 口伝のうちにこゝろ持あり
ほか
〔井上流鉄砲道十首歌〕
一ツある目当を打とおもへ唯ちかふはおのが心にぞあれ
ニツ有目当の外に目当あるを心に伝へありと知べし
三目当いつもの時はいらねども つめのつめには用るとしれ
四季を打目当に習あるものを しらで打こそはかなかりける
五く意(極意)とは五常の稽古に有物を ねても覚ても是を忘るな
ほか